想い出クッキング

 今回の展覧会、“the SETTING”のテーマは私自身の住んだ土地を巡り、振り返る中から出て来る風景を描こうという試みでした。この企画の関連企画として、この度、ライブペイントをする運びになりました。 展示会場では、私の個人的な風景が描かれていますが、今回のこのライブペイントでは、みなさんの思い出の風景を描こうと考えています。それに向け、事前にホームページや、雑誌媒体等を通 してみなさんから思い出の風景を文章で募集してきました。 この試みの中には、私の中でいくつかの意図があります。まず、私自身、今回の展覧会のために今まで住んだ場所を取材する中で、自分の記憶の風景は自分なりの解釈により、実際の風景から脱線している点を多く感じました。きっと、お寄せいただいたみなさんの文章にもそのような箇所は多分にあるように感じますし、また、文章により、相手に風景を伝達するというのは、実際の風景そのものではなく、その人が持っている唯一の風景なのだと思います。そして、私自身、みなさんの頭の中の映像としての記憶を“見る”事は不可能で、私なりの解釈が加わります。そういった幾層かのフィルターを通 して描かれた作品は一体どうなるのか、私自身、楽しみでもあります。 また、今回は、20人ほどという上限を設けて、文章を募集しました。最終的に、このライブペイントで扱われるものは、17人の文章となりました。一枚のキャンバスの中に17人の思い出の風景を詰め込んでしまえ、というなんとも強引な発案ですが、決して交わる事のない散らばった風景を絵画という手法によって一つにできるのだと思います。 このライブペイントにはただ描いて終わり、というのではなく、その後にも一つ、お楽しみを作りました。今回寄せ集められた記憶の風景は、今会期中は佐藤美術館内に展示されますが、展覧会終了後、私の手により、トリミングし、切断され、今回、文章をお寄せいただいた方々にもらっていただきます。これは、単なる絵画作品をあげるという行為ではなく、私の手によって料理された思い出をどう扱うかを、それぞれの人に託そうという考えです。額に入れて飾るもよし、箪笥にそっとしまうもよし、はたまた焼き捨ててしまうもよし、それはその人の思い出の扱い方です。 今回のこのライブペイントはまるで料理のようだと、構想を練っていく中で感じました。カレーや野菜炒めのように、みなさんの記憶はそれぞれの具材、それを一つの鍋の中に入れて料理するのは私。所々、私のスパイスも入って、料理(作品)は完成します。最後に皿に持ってみなさんにサーブする。 即興的な制作で、どこまで美味しそうな物が作れるか分かりませんが、頑張って腕をふるってみたいと思います。                                              

2007.7.5 呉 亜沙

みなさんから寄せていただいた文章

Aさんの思い出の風景

随分と昔の話になるが・・・。 小学生の頃私は訳あって地元の学校には行けず自宅から徒歩で約10分ほど歩いて最寄り駅に行き、更にバスで約15分ほど行った場所にある小学校へ通 っていた。(厳密には通わされていた) 故に地元には同年代の友達が極端に少なく休みの日はいつも自転車に乗って散策。とにかく自転車で行けるところはどこでも行った。特に目的があったり、地図を目当てに行くというわけではなく気の向くまま。ただ、居心地の良い場所というか、行きつけの場所というか・・・はあった。そこは大きなグラウンド。 自宅から自転車で約15分ほどの場所。自宅から5分ほど行くと左側に公立の小学校があって(そこには弟と妹が通 っていた)、その向かいは私立の中学、高校(後に私が通うことになる)があった。そこをすぎると桜川という川があってその橋を渡ると左側に大きな公園、道を隔てて公立の中学校があった。桜川は、その名の通 り季節になると川の両脇の桜がそれはそれは美しかった。その中学を過ぎほどなく行くと高台になっていてそこが行きつけのグラウンドだ。ただそこは○○グラウンドと名はついてはいたが、グラウンドだけではなくたくさんの施設が点在する。それはそれは大きな緑地帯というか総合運動公園というか・・・。(もちろん入場は無料!) 大きなトラック、野球場、公園は3つほどあったしサイクリングロードやプール、それに確か縄文期竪穴式住居の遺跡まであった。別 にいろいろな施設があるからといっていつもそれらを利用していたわけではなく、トラック脇に寝そべって空を眺めたり 草野球を観戦したり、高台だったので風が爽やかでいつも風を感じていたし、風に乗って葉の緑の匂いや季節も風で感じていたように思う。 30年以上前の記憶だけれど色や匂いや流れていた空気など意外と克明に覚えていて、何だかすぐにその時に戻れそうな、そんなおかしな錯覚を覚えるのが不思議である。 懐かしいが、ただそこへ今戻りたいかといえばそういうわけでもない。 あの場所は、私の子供の頃の悲しかったり、寂しかったりした思い出がたくさんある場所だから・・・。

Bさんの思い出の風景

私が28年間生きてきた中で宝だなあ・・と思える「場所」は藤沢(湘南)です。 ごくごく最近の4年間ですが、私にとって特別な「場所」です。 北海道からたった一人でやってきたこの街で私は、大好きな仕事と、素敵な人達、そして素晴らしい趣味に出会いました。人生が変わったーって思えるくらい・・。 私の中での藤沢(湘南)のイメージは「太陽と波と水色」。 自由気ままに一人で好きなことだけやってきたせいか、明るくてあったかい街っていう感じは一生抜けないと思います。特別 な景色があるわけではなく、ごく普通に家があり、銀行があり、仕事場があり、ごく普通 な風景。・・そのなかで私の心のなかの景色がかなり変わった気がします。真っ白で、不安と期待から始まった4年前。それから仕事や趣味を通 して色んな人に出会い、楽しいことはもちろん、つらく悲しい出来事も乗り越えてきた今となっては鮮やかで優しい藤沢の色に染められているような気がします。 この場所を離れると決めた今だからこそ、なにか特別なモノを感じます。 藤沢(湘南)は私の第二の故郷であり、一生忘れられない街ですね。

Cさんの思い出の風景

18才まで、私は北海道の道東の郊外を転々をして過ごしました。道東が本州と大きく違うのは、景色が広いことだと思います。 中でも15歳まで5年以上いた阿寒町(釧路市の西で、よく丹頂鶴が飛んでいました)。自分の部屋の窓から見えた景色が忘れられません。手前には、子どもが足をまくって歩いて何とか渡れるくらいの川、その奥に山が連なっていました。 少し早く家に帰ると、川は光っていて、山は少し西に傾いた太陽を背に山際がはっきりと浮き上がって、木にとまる鳥まで見えそうでした。 その山を超えたらどんな世界が広がっているのか、きっとまた山だろうけど、その向こうは海なのか、同じような町があるのか、大きな町があるのか、考えてわくわくしていました。小さい頃は、鳥になることをよく考えていましたが、その山を上から超えた景色をよく想像して楽しんでいました。 その後、北海道を出て、日本を出て、いろいろなところに住みましたが、「あの山の向こうは。。。」と考えていたときのことをよく思い出します。

Dさんの思い出の風景

私が育った行田市という街は、新幹線を通 さなかったことで、今でも田舎ですが昔は「足袋の町」で有名でした。 私のおじいちゃんの家にも足袋の裁断する?機械がありました。 そのまた昔には、忍城というお城があり、城の四方は沼に囲まれていて、戦国時代、さまざまな戦いに耐え、石田三成の水攻めにも屈しなかったことで有名です。 私が大人になってから、観光用に?お城が建てられましたが、ちょっとちゃちいです。 お城の中には、足袋の紹介コーナーもあって、おじいちゃんの商標も展示されています。 これもまた私が大人になってからですが、地中から古代蓮の種が出てきて、今では立派な「古代蓮の里」なんていう施設もあります。 私が子供の頃に良く遊んだのが、そんな沼と池がある「水城公園」です。 夏は作り物ですが、滝の中に裸足で入って滑って転んだり、池にいる鯉にえさをあげたり、冬は芝生の広場で凧揚げもしました。 池?沼?は大小いくつもり、蓮や紫のほていあおいが一面に咲きます。 一年中を通しての遊びは、「ざりがにつり」です。 近所の駄菓子やさんで、それ用の糸と酢イカを買って、糸の先にイカをしばり、沼?の柵の際に垂らします。よく釣りました。家にたくさん居ると生臭くて、脱皮したりもしました。 あと、よく覚えているのが、白鳥がきていたことです。 いつのまにか来なくなってしまい、あの頃は当たり前に見ていたのが不思議です。 今も、アヒルやカモ、こぶつきカモ?アヒル?もいます。 一度だけ、アヒルかカモか?の卵を持って帰って温めたことがあります。 もちろん孵りませんでしたが。。 田んぼや田んぼの近くの川では、おたまじゃくしや、めだか、たにし も捕りました。 一度、田んぼで、ヒルをどじょうだと思ってつかもうとして、止められたこともあります(笑 かたつむりもたくさんいて、飼ってたりしましたね。 夏は、近所のお寺で蝉取りもしました。 お墓の上とかに上って捕っていました(苦笑 弱って動きの鈍くなった蝉をブローチにしてみたり。。。 土蜘蛛とかも捕ってましたねー(笑 壁とか屏の下のほうに巣?の入り口?出口?があるのを、すーっと引っ張って出して 巣を破いてクモを出す。出すだけなのにね(笑 あ、あと、オシロイバナを水の中で潰したりして、いろんな色の色水を作って、道路に絵描いたりもしました。 花といえば、畑一面に咲いていたので、もちろん?レンゲやクローバーで首飾りや腕輪を作りました。 畑に藁?が積んである上で寝たりもしてました。 近くにローカル線(秩父鉄道)の線路があって。。。 私が子供の頃の秩父線の電車は、まだ床や窓枠が木の電車でした。 語り始めると結構どんどん出てきてしまうものですね(笑 とにかく、自然というよりはイキモノと接していたなぁと思います。 今の子供は子供だけでそんなふうに遊びに出かけることも難しいと思うと、私の年齢でも充分「昔は。。。」となってしまうのも複雑なものですね(笑

Eさんの思い出の風景

生まれてはじめての海外体験が22歳の時のロンドンでした。 夜にロンドンの上空に到着した飛行機から見る街並は、意外にも白色灯やネオンだらけの東京とは異なり、オレンジ色の薄暗い街頭がボォーっと点灯しているものでした。 はじめは、ロンドン近郊の田舎町だと勘違いしていました。 機長からのアナウンスでロンドンの街の上空を飛んでいることを知らされました。 その途端、「ついにあこがれのロンドンに来たんだ!」という思いとともに涙があふれてきました。 それから18年が経ちますが、「ロンドンに行く」というより、「ロンドンに帰る」と思えるほど、第二の故郷のような存在です。

Fさんの思い出の風景

私の原風景ーそれはこの世に生まれ出て、初めて見た風景ー私は母に抱かれていた。目の前には母の乳房があり、おもいっきり吸っていた。今思い出すと確かに血の味だった。ただ胸元の白さと血管の青筋が鮮明に思い出される。 次に覚えているのはテーブルに坐っている私(1才位か)、テーブルの上を黒い物がガサゴソと動めいていた。私はそれをさっと、素早く無意識に手でつかんで口に入れていたー今思い出すとカニの味だった。父と母は大慌てで私の口に手を突っ込んで吐き出させようとしていたーその顔が今も鮮明に思い出させるーそれは蜘蛛だった。 関西の衛星都市に生まれ育った私は都会でも田舎でも無い町で、成長した。山や谷は無く平野であるが、開発されていないので、田んぼか、溜め池か空き地が多く、そう言う所で遊んだ。 田んぼや溜め池では蛙やザリガニを採り、兜海老(兜蟹では無い)や台湾ドジョウ、(清流にいる様な魚はいない)夏はセミ、カミキリ虫(カブト虫、クワガタはいない)、黄金虫、玉 虫、秋は殿様バッタ、コオロギなどである。今思うと充分田舎なのだが、夏休みの度に田舎に帰るといって祖父祖母の大田舎に(所謂、親の帰省)行ってしまう友達を羨ましく思ったものだ。 そんな田舎の無い私が楽しみにしていたのが、夏の終わりに必ずある地蔵盆の風習。 地蔵盆とは子供の祭りで俗にいう盆踊りが終わってから行われる夏祭りで当時の振興住宅街の一角にあった児童公園(砂場とジャングルジム、イチジクの木が一本あるだけ)であった。当時は子供も多く(クラス40名が12クラス!)子供会も盛んに行われ、まだ紙芝居や焼き芋、ポップコーン、など屋台を引っ張ってきていた。地蔵盆では踊りもあるし夜店も出る。踊りの終わった静けさの中、提灯の薄明かりに照らされた地蔵様が悲し気であった。(夏休みも終わると思うと悲しくなったのが、地蔵様と重なったー毎年) 隣の街(大都会)との境には、大きな大きな河川(一級河川)があった。その横には平行に流れる小さなドブ川。その近くに牛の屠殺場があり時に真っ赤な水になっていたのが記憶に鮮明にある。(当たり前の風景だったが、、、)又、元々はその一級河川の氾濫を防止の為に作られたドブ川。 そんなドブ川が氾濫して大洪水を引き起こし、床上まで浸水したこれ又、苦い記憶。(人災と認証された!) 川の高い土手を西へ西へと自転車で2時間走り続けると海に出る。逆に東に2時間走り続けると山になる。 そんな土手を小中学時代は毎日ジョキングをした。 家から一番近い土手から東へ、四つ目の橋を北へ渡り向こう側の土手から帰ってくるのだ。 土手を走っている時、見えるのは河川敷のルンペンの住まい、ウシや豚を飼っている牧場の佇まい、川沿いに多数ある工場のどす黒い煙。 当時(30年位前)はあまり規制の無かった時代で、今振り返っても一番空気や水が汚れていた様だ。のどかな様でいて高度成長期の汚染(工場も垂れ流し)と隣り合わせの時代。今のようにエコロジー、環境破壊、節エネルギーなど全く頭に無かった時代だった。この川で釣りをしたら、最初白色だった釣り糸が帰る時はピンク色になっていた。 私はそんな町とも大学進学とともに離れた。 20年後に戻ってみると河川や田んぼはあまり変わっていないがルンペンや牧場は無く、工場も減り(煙突が減った)、河川敷はテニスコートになり、土手の道はアスファルトになり、山や 海へ行く道は遮断され、それなりの変化があった。 水や空気はきれいになったようだが、人の心はどうだろうか? 毎日のように報道される殺人。ニート、メランコリーの増加。 汚かったが、汚いあの頃に戻りたいと思ってしまう。きっと、あの頃は子供だったが世の中の人の心も現在より、すさんで無かったのかも知れない。これも私達一人一人が、なし得て来たものであり、責任を感じてしまう一人の大人として。。。了

Gさんの思い出の風景

私は生まれも育ちも北海道で、3歳から20歳までを、北海道中央部の旭川で過ごしました。今でも両親は旭川に住んでいます。  私の中での故郷北海道の印象はやはり冬です。そして、その冬のイメージは雪でも寒さでもなく、キラキラと輝き異世界へと子供達を誘う氷でした。  旭川も、いまやすっかり動物園で有名になってしまいましたが、かつては−42℃を記録したこともある、日本で一番寒い街として知られていました。都市化が進んだ影響でしょうか、残念ながら私はそこまでの寒さは体験したことは無く、せいぜい−26℃止まりです。それでも十分寒いですね。  寒さの話をすると、馴れない人たちはとても嫌がるのですが、それはマイナス一桁までの中途半端な寒さの話。もっともっと冷え込むと、それはまるで異世界に紛れ込んだような、不思議な体験が出来ます。  −10℃を下回ると、寒いという感覚が無くなり、ぴりぴりとした痛みとして感じられるようになります。さらに−15℃以下にまで冷え込むと、周囲の光景が一変します。空気中の水分が凍り、ダイヤモンドダストが発生します。周囲の空気がキラキラと光り輝いているのです。それはそれはとても綺麗です。樹氷も発生し、木立も雪化粧とはまた違った装いを見せます。川の水面 と空気の温度差が開き、水面からまるで温泉のように湯気が立ち上ります。雪も溶けず、握っても固まらず、さらさらとガラスの粉のように指の間を流れ落ちます。全ての情景が、感覚が、常識とは異なってくるのです。もちろんその中で暮らす人たちにはそれが常識なのですが。  子供達も、べちゃべちゃにならない雪の中で遊べるのですから、かえってこのくらいの冷え込みの方が嬉しく、力の限り遊び、後から襲ってくるしもやけに悩まされることとなります。  かつて北海道の先住民は、水の本当の姿は氷だと思っていました。つまり水が凍って氷になるのではなく、氷が解けて水になるのだと。まさにその世界を実感していた子供時代でした。  そしてその氷が溶け、更に雪も消えた時、桜も梅もチューリップまでも一斉に咲き乱れる短い春となるのです。

Hさんの思い出の風景

「クサノモリ」 小学1年生頃の僕たちはそれぞれの秘密の場所(=基地)を持つ事が自慢だった。 空き地の隅に積み上げられたコンクリート管の中(下から2番目くらい)だったり、雑木林の一番大きな木の根の間に石や小枝で掘った一人が座れる溝だったり、ゴミ捨て場でベニヤ板や壊れたベンチを積み上げたりして作った屋根付の部屋だったり。 毎日、そこに宝物(=空き缶、きれいな石や木)を持ち込んではいつか友達に見せようと思っている工程がただただ楽しかった。(でも完成した基地はなかった。) ある日(たぶん秋だと思う)新しい基地を見つけようといつもの空き地のちょっと奥へ行ってみた。 その先にある草むらの中に入って振り返ると、いつの間にか自分の背よりも高い「クサノモリ」に迷い込んだ事があった。(細長く、根っこからまっすぐに伸びた黄緑の草だった) 前後左右の草に囲まれ、どこからか何かがやってくるドキドキした感じは、怖さよりも好奇心を掻き立て、前へ前へと足を進めていく。 やっぱりちょっと怖くなり早足になったその時、「クサノモリ」がなくなって突然小さな沼地が現れた。 田んぼや小川など、水の中を覗くのが大好きな僕は泥水のような沼の水面 にゆっくり顔を近づける。 小さな半透明の丸い形が水草にからまるようにいっぱいある。 「カエルの卵だ!」 どのくらいじっと見ていたのだろうか。 気がつくと空はだいぶ暗くなってきていた。 「明日、バケツをもって卵を取りに来よう」と、心の中でつぶやいて、急いで「クサノモリ」を抜け出し家に帰ると半ズボンの素足は擦り傷だらけ。 でも痛さより、「カエルの卵取り」で頭の中はいっぱいだった。 翌日か翌々日か忘れたが、学校が終わってすぐにバケツと虫取り網を持って空き地のちょっと奥へ向かった。でもどんなに探しても、自分の背より高い「クサノモリ」もその奥にあった「小さな沼」も、いくら探しても見つからない。友達に学校で自慢したのに見つからない。どうやってあそこに行ったんだろう。 どうしてみつからないんだろう・・・。いつも遊んでた空き地のちょっと奥のはずなのに。 2007.6.6 東京・足立区に住んでいた頃の記憶。

Iさんの思い出の風景

子供のころ山形の実家では、商売をしていたので忙しいために、小学生時代は夏・春・冬 休みのたびに、宿題持参で母の実家の秋田で過ごしました。実家は駅前なので当 時でも土のない場所でしたが、おばあちゃんの家は、りんごを栽培している山と 水田しかない農村でした。お店は一軒もなかったです。  今回浮かんできた風景は秋田でした。  夏になると、見渡す限りの青海波のような水田で、どじょうを採ったり、夜は団扇を持ってホタルを追いかけた思い出があります。冷蔵庫の普及していない時代と場所だったので、やかんを持って冷たいわき水を汲んだり、スイカやモモを冷やしたりしました。クーラーのない時代だったのでとても美味しかったです。 たまに町から鐘を鳴らしながら自転車でやって来るアイスやさんの到着を待ちかねていました。おじさんが、馬を飼っていたので、一緒に川に行き馬の体にブラシをかけたり、水をかけたりしました。  冬は、一面雪で真っ白でした。もくもくと煙の出る機関車に乗って十文字という駅で下車すると、おじさんがサンタクロース仕様のソリを引っ張って迎えにきていました。私と妹は、ルンルンしながら、そのソリに乗って家まで連れていってもらいました。秋田の地域限定のお正月料理や、いぶりがっこ、ハタハタの鮨付けは、現在の味とは全く違う味でした。  春は、雪解けの季節です。従兄弟達といっしょに、りんご山に登り、のびろや春ランの花をつんで、おばさんに料理してもらいました。春ランの花は、方言でカックラアネコといい、梅酢に漬けて美味しかった思い出があります。春ランは今では贅沢品になっています。  子供の頃の原風景は、あまり考えたことなかったですが、今回思い出してみた ら楽しかったですよ。もう一度、子供時代に帰ることができたら、その時には気 づかなかった価値観でもっと楽しんだかもしれません。  

Jさんの思い出の風景

思い出すのはいつも秋だ。 よく晴れていて、まだ京都の辛い夏を感じさせるような蒸し暑さが残っている秋。 母方の祖父母の家は、京都の繁華街である河原町から少し離れた場所にあった。 銀杏並木沿いに横長に広がる京都大学と、節分祭で有名な吉田神社の間の大通 りを抜け、民家がびっしりと立ち並ぶ細い路地を、ふと折れ入る。 その路地は大人一人が通 るのがやっとの幅で、両サイドには、幼いワタシが首をうんと伸ばしても中を覗き込むことのできない、高すぎる万年塀が迷路のように続いていた。 コンクリートブロックを山高く積み上げただけの味気ない塀が余計に迷路を連想させていたのかもしれない。 祖父母の家は、そんな路地を入ってすぐのところにあった。 塀は高すぎたけれど、狭い路地はワタシと妹が手を繋いで歩くには十分な幅だった。 母親に連れられてきたワタシたち姉妹は、よくこのあたりを探索した。 年寄りの多いこの地域はいつもひっそりとしていて、テレビの音だけが時折もれ聞こえていた。 妹の手をひいて歩く。足音が響く。 小さな子供の足音すら反響させてしまうほどの細長い路地。 びぃん、びぃんと響くのが面白くて、妹と足をわざとおおきく踏み鳴らした。 母親はおしゃれな人で、ワタシたちはいつも革靴を履かされていた。 子供の足に優しいズック靴ではないから、足首にビリリと電気がはしる。 でも、そのびぃんびぃんを聞きたいがために、痛くなる足を我慢していつまでも踏み鳴らし続けた。 この細い路地は大通りから入ってまた、大通りに出る。 つまりアルファベットの「D」のように直線の大通 りを迂回しているのだ。 このわずか50メートルほどのアールの路地が、胸を高まらせる大冒険だった。 最初の難関は白い大きな犬のいる家だ。 大抵の家は、塀と同じ高さの半間ほどの木の門扉をしつらえていていつもピッチリと閉じられていた。 でも、白い犬の家だけは違っていた。 ずらりと続く万年塀がいきなり凹み、これまた半間ほどの鉄の格子の門扉になる。 そのたたみ一畳ほどの狭い玄関ポーチにヤツがいた。 真っ白でふかふかの毛並み、真っ黒な目と鼻、そして大きな口。 番犬で飼われているのだから、前を人が通ると当然ほえる。 平気な顔をしてすーっと通 り過ぎればよいのだけど怖くてなかなか前が通れない。 躊躇して、何度も覗き込んでは吠えられ逃げもどる。 白い毛に縁取られた真っ赤な大きな口が今でも鮮明に思い出せる。 ・・・あるていど大人になってからその犬を見たときには意外と普通 の中型の雑種で、吠えられることもなかったのだけど。 そんなことを何度も繰り返しているうちに、やがて決心がつく。 緊張と、なんども逃げ戻ったせいなのか、汗でベタベタになった手を妹としっかりと握りあい、目をつぶってダッシュで駆け抜ける。 びぃんびぃんびぃんと響くおとが高くなる。 ようやく難関を抜けきったとき、犬は吠えなかった。 犬の家を抜けると、少し路地が広くなる。 大人二人は通れるようになる。 万年塀はなくなり、昔ながらの京町屋が軒を連ねる。 平屋の木造住宅は、ワタシたち姉妹が住んでいる新興住宅地と比べれば みすぼらしいのだけど、子供心にもなぜかキライになれなかった。 むしろ好奇心をそそられていた。わくわくさせられていたのだ。 京都の町屋には特有のニオイがある。 夕飯のニオイとかそういうのとはまた違う。 30歳を半ばにしたワタシが今言葉にすると、あれは町屋の「色気」だ。 家自体が、なんとも艶っぽいニオイを発しているのだ。 その中の一軒に、軍鶏(しゃも)を飼っている家があった。 軒下に鳥かごが2段に積まれていて、横にも5個ほど並ぶ。 ちょっとした鶏のアパートのようだ。 ここの軍鶏は、闘鶏やから絶対籠の中に指入れたらあかんよ、と母親にも祖母にも、いつもきつく言われていた。 下段にはトサカも体もやや小ぶりな雌鳥が入っていて、たまにヒヨコもいたりする。 繁殖させているのか、たまたま孵化しただけなのかはわからない。 上段に入っているのは鶏冠の立派な雄鶏だ。 首がながく、真っ黒で、鶏冠がやけに赤くみえる。 ぐっぐっーぐっくっー 小さく啼いていると、とても凶暴には見えないのだけど、黄色いウロコのような皮膚で縁取られた鋭い眼に、闘うものの意思を感じる。 親に注意されるまでもなく、絶対に手出ししてはいけないと本能が語りかける。 粉っぽいのはエサの匂いなのだろうか ここを超えるといよいよ大通りだ。 京都大学の「吉田寮」が目の前に広がる。 30メートルほどの高さにまで成長した立派な銀杏が数十本も並んでいることで有名でもある。 秋になると、銀杏は素晴らしい黄色に彩られる。 地面は一面に黄色いすべすべしたハッパで覆われる。 これがまたよく滑るのだ。 真ん中で切れ目が一つだけ入ってるんが雄。 袴を穿いてはるんよ。 裾がひらひらとしているのが雌。 スカート穿いてはるやろ。 母が言う。 京都は空が広い。 建築物の高さ制限が厳しいため、あまり高いビルが建っていないせいだ。 晴れた秋の空に黄色いドレスでこんもりとなったイチョウ。 黄色いムック。(ガチャピンの相方) 妹と一緒に名づける。 雲ひとつない青と黄のコントラストは本当に美しい。 今では珍しく雄と雌と両方の樹を植えているため、葉が全部落ちるとギンナンが鈴なりになる。 これだけ立派なイチョウだからギンナンも勿論ぷりんぷりんだ。 これがまた臭う。 けど、いつまでも嗅いでいたい気もする。 かぶれるから触っちゃダメ、と言われて、足で踏む。 足で踏んで種を取り出すのだ。 さすがにそのときは、母親も革靴を履かせようとはしなかった。 キレイにあらって乾燥させたら、母が煎り器で煎ってくれる。 煎り器も最近はみなくなった。電子レンジの普及のせいだろうか。 すこし焦げた象牙のような硬い殻からエメラルドグリーン色をした翡翠のような艶やかな実が出てくる。 ギンナンの苦味が少し大人になったような気にさせる。 京都大学の寮の前を通 ってまた路地に戻るとゴールだ。 祖母の家は玄関を入ると土間があった。 土間の天井は高く、梁がむき出しになっている。 防空壕のしつらえてある、戦前から建っている木造家屋だった。 昼間は電気をつけないから薄暗く、明るい外から帰ってきたワタシの視界は一瞬、真っ暗になる。 祖母がバヤリースのオレンジジュースを冷やして待っていてくれる。 家では母親が絶対に飲ませてくれなかったジュースがやたら甘くて美味しい。 外気はまだまだ暑いのに、家の中はひんやりと涼しい。 妹と並んで土間に腰掛けて足をブラブラさせながら、私たちと同様に汗をいっぱいかいているジュースの瓶で首筋を冷やした。

Kさんの思い出の風景

僕は大学時代に、茨城県の水戸という所に住んでいました。 お気楽な大学生ではありましたが、それなりに嫌なことがあったり、一人でボーっとしたい時があったりして、そんな時によく行っていたのが大洗(おおあらい)という海岸でした。 家からバイクで30分くらいで、夏以外はほとんど人がいなくて海をぼんやり眺めるには絶好の場所です。 特に、春先の午前中に太平洋を眺めていると、暖かな陽の光がキラキラときらめいて、自分を包んでくれるような感じがしました。 朝早いうちは光を反射して明るい海面が、時間が経つにつれて青の色を濃くしていくのも好きでしたし、そんなふうに雰囲気が変わっていくのを感じていると、何となく幸せな気分になっていったものです。 大洗には海水浴が出来る砂浜もあるのですが、僕の行きつけの場所はあまり人が行かないような岩場で、ごつごつした岩に荒波が当たってしぶきが散ったりする様子や、満潮と干潮では全く違って見える風景が何とも言えず気に入ってました。 2〜3時間くらいすると、海風が体にきつくなってくるので帰ろうかなという気になります。そのころには、溜まっていたもやもやが大分取れていて、少し元気になって家路についたものでした。 今でも時々、あんなふうに海を眺めたいなぁと思うこともありますが、中々そうもいきません。それに、もうあのころみたいな気持ちにはなれないんだろうなぁと思うと、ちょっと寂しいですね。

Lさんの思い出の風景

「自身の中で色濃く残る風景」を考えたときに、「そういえば最近夕焼けを見ていないな」とふと気がついた。決してドラマチックな出来事があった場面 じゃないけれど、どんな風景よりも今の自分にとってかけがえの風景、それは「夕焼け」だと思う。 社会人になってから3年。 私の働く神田は、まるで肩をすくめているようにビルが立ち並んでいて陽射しは縁遠い。 日中は蛍光灯の青白い光に照らされ、気づけば外が暗くなっていて夜が来ていたことを知る。青空の下で日光を浴びることができる時間といえば、駅から会社までの数分間だけという毎日の繰り返しだ。 夕暮れ時に外に出られたとしても、見上げた空は両サイドがダークグレーのビルにトリミングされていて長方形に切り取られたみたい…。 一番キレイだなぁと思った夕焼けは、中学生の時のもの。 住宅地からちょっと離れたところにあった私の中学校は、田んぼの中にぽっかりと浮かんだような丘の上に建っていて、学校の周囲をぐるりと林が囲んでいる自然に溢れたのどかなところ。 天気のいい日はうっすらと富士山を見ることが出来るほど見晴らしのいい旧校舎の第2音楽室が吹奏楽部の部室だった。 部室から見る夕焼けは、いろんな色が混ざり合っていて鮮やかだった。 練習を終えてにぎやかだった部室から音が消えて、金・銀に光る楽器達がケースに収まった頃、部室の白壁がオレンジに染まりはじめ、窓から外を見上げるとぽっかりと浮かんだ雲はピンクとグレーに輝き、水色、紫、白、オレンジ、赤と複雑なグラデーションの大パノラマ。 東の空から群青色の「夜」が迫ってくることを教えてくれるように、下校の音楽だったニューシネマパラダイスの愛のテーマが優しく送り出してくれて、みんなでわいわいと騒ぎながら下校していた。 「一日の終わり」を夕焼けから感じていたあの頃。 時間に追われる毎日の中で、いつのまにかあのやさしい夕陽を感じることができなくなってしまったことが悲しい。 あのときみたいな夕焼けに包まれる幸せを毎日感じて過ごしたいと思う。

Mさんの思い出の風景

大阪には上町台地と呼ばれる台地がある。 この中心に大阪城が建っている訳で。 そして、台地の上側は比較的裕福な地域、台地の下側はその反対である場合が多い。 小学校1年生まで住んでいた場所は、大阪市阿倍野。 そして、ちょうどこの上町台地の斜面 の真ん中よりちょっと上辺りに住んでいた。 坂を上れば立派なお家が建ち並び、坂を下れば浮浪者がうろうろしているというあり得ないぐらいの貧富の差を幼いながらに体感できる不思議な場所だった。 オイラの仲良しの友達は、坂の下に住んでいた。 坂の下にある路地は、慣れているとは言え、幼かったオイラには心臓がバクバクもんで、ちょっと日がかげりだしたら、友達の家からダッシュで家に向かったっけ。 そんな坂の下の友達の家から、さらに急激に一段下がったエリアがあった。 そこは全国的に有名な 『新世界』 って所。 体中に入れ墨を施したお兄さんや、ヒールにスカート履いてるオジサンや、数年間はお風呂に入っていないオジサンや、路上で寝っ転がっているオジサンなんかが、珍しくもなくゴロゴロしているエリアだった。 友達の家の目の前に、横幅2mぐらいで、2階建ての建物分ぐらいの高さがある石段があった。 この石段の下が、『新世界』。 【あっち】の世界への入り口なのだ。 両親は口が酸っぱくなるくらい、オイラ達子供にこう言う。 「絶対に、あの階段を下りちゃいけないよ。あっちに行っちゃいけないよ。」 と・・・。 オイラ達の世界から、おそるおそる階段の下をのぞき込む。 綺麗なビルは一つもなく、戦火を逃れたボロボロの建物が立ち並ぶ。 2階建てが精一杯らしく、辺りにはトタン屋根の平屋も数多く残っていた。 ちょっと背の高かったビルは昔ながらの灰色で、壁には亀裂が無数に入り、ガラスが入っていない窓もちらほら。 茶色と灰色だけで構成された【あっち】の景色は、子供ながらに怖かったのだ。 この階段を下りたら、捕まるんじゃないか? この階段を下りたら、上がってこれないんじゃないか? この階段を下りたら・・・。 ある日、友達がこういった。 『下・・・ちょっとだけ行ってみーへん?』 一人なら怖いけど、3人でなら・・・? 6歳の友達2人と、5歳のオイラは、一列になって手をつなぎながら、ゆっくりと石段を踏みしめ、一段、そして、また一段と階段を下る。 細心の注意を払いながら、足先で安全を確認しながら・・・。 最後の一段。 これを降りて地面に足を着けると、【あっち】の世界に入ってしまう。 オイラだけでなく、両手をつなぐ友達の心臓もバクバクいってるのが分かる。 三人とも顔を強ばらせながら、最後の一歩が踏み出せずにいるのだ。 あと一歩・・・・!!!!! 階段の影で寝っ転がっていた浮浪者のオジサンが、偶然にもむくっと起きあがった。 別に何をされる訳でもないはずなんだけど、緊迫したオイラ達にはもうその存在だけで十分だったのだ。 三人は声も出さずに階段を駆け上がり、一番近くにあった友達の家に駆け込んだ。 家に入っても三人はずっと手をつないだまま。 友達のお母さんの顔見て緊張の糸が解けたのか、おばちゃんにしがみつき三人で号泣したっけ。 今はもう綺麗になってるかも知れないけれど、オイラの中ではまだ、あっちの世界はあの頃のままなのだ。

Nさんの思い出の風景

2001年4月。大学を卒業したばかりの私は、これからの人生をどう生きるか、自分の気持ちを確かめたくて、方向性をはっきりさせたくて、一人N.Y.に下り立った。春とは言え、まだ寒さもあったが、非常に気候の変化が激しく、時にはとても暑い日もあり、アイスが無料で配られる日もあった。  N.Y.は、私の期待していた以上のマチだった。「あぁ、生きてる」と感じた。沢山の人、車、ビルの群れ、路上や地下鉄あらゆるところで演奏したりパフォーマンスをするアーティストに溢れ、どこもかしこもパワーと熱気に満ちていた。ブロードウェイには、派手な看板が立ち並び、劇場には色とりどりのネオン。tktsには、ミュージカルの当日券を求める人の列があり、電工掲示板には、今日の公演情報が打ち出されていた。たまたま向こうで知り合った同じ大学の先輩が観に行ったミュージカルが凄い良かったと聞き、数日もしないうちに、一人その劇場に足を運んだ。胸がいっぱいになった。少し暗めのロビーを通 過し、一番後ろの一番角の席にちょこんと座る。鳥肌がたち、興奮がなかなかさめなかった。頭の中もいっぱいになっていた。「あーこれだ。これしかない。やめられる訳が無い。」もう考えるどころか、答えは出ていた。「やりたい。やるしかない。」と。そして、あの時の気持ち、心の蝋燭は消えることなく今も尚、私の中で光り輝きつづけている。

Oさんの思い出の風景

30年以上前のことになります。私が幼い頃、我が家は親戚 が所有する県庁所在地の駅前にある商業ビルの最上階に住んでいました。 当時はまだ近隣に高い建物は少なく、屋上からは富士山などずいぶん遠くの景色までが見渡せました。階下には当時成長期にあった昭和時代の駅前の慌しい喧騒が広がり、もっぱらそのビルの屋上が、幼いわたしにとって庭のような存在でした。そこで歩行器も三輪車も覚えました。また、暑い日には屋上にビニールプールを出して水浴びをし、寒い雪の日には屋上に積もった雪で雪だるまや鎌倉をこしらえて遊んだものです。 広い風呂が好きだった父は、休日の夕方、晩酌を早めに済ませると、ほろ酔い加減でわたしと兄の手を引き、銭湯まで連れていってくれました。風呂あがりに番台で栓をぬ いてもらうビン入りの甘いジュースが、わたしたち兄妹の楽しみのひとつでした。 父は一息つくと、そのまま夕涼みがてら、近所でもっとも高い建物まで散歩がてらわたしたち子どもを連れてゆきました。そして最上階の屋上まで上がって、階下に星空のように広がる夜景を指差し、あれが東京タワー、あれが霞ヶ関ビル、そしてあれがお前たちの住むビルだよ、と、丁寧に教えてくれました。 そんな時は決まって背の高い父が肩車をしてくれたので、幼い自分は見下ろす明かりの灯る街なみを、小さな掌中に手に入れた一国の王様気分でした。 そのビルの最上階は360度、視界を遮るものが何もなく、夜風が入浴でほてった体にビルを横切る風がとても気持ちがよかったことを記憶しています。 我が家はその後、郊外に家を構え、引越してしまいましたが、わたしは幼い頃に育ったその街が好きで、結婚後の今も住み続けています。 わたしたち家族が当時住んでいた商業ビルも、銭湯帰りに上ったビルも今なお存在します。 しかし今、周囲にはその倍以上もの高さのある高層ビルやマンションが乱立してしまい、当時の街なみの面 影を残していません。 母親になった今、わが子を連れ、ベビーカーでそれらのビルの前をふと通 りかかることがあります。かつてのその堂々たるビルたちは、存在を忘れかけられようとしている、老いた老夫婦、あるいは近代的な都市模型の中に佇む、場違いな古びたブリキの兵隊のように肩身が狭そうにわたしの目には映り、王様だったはずの幼い自分を思い出し、少しだけせつない気持ちになることがあります。

Pさんの思い出の風景

気候温暖化で、地球がゆで上がっている今とは違い、戦時中疎開した山形米沢は寒い季節の長い所でした。 冬の風景は白一面で覆われた町で、目印のない雪砂漠、子供の私は常に誰かにつかまって歩いていました。 小学一年生の私は上級生に手をひかれ、白一面の吹雪の中を雪ダルマになって学校にたどり着く、、、と上級生がホウキとハタキで頭から足の先まで満遍無く掃除してやっとワ・タ・シが出てくるのです。

Qさんの思い出の風景

僕の母は鹿児島出身なんですが、仕事で来ていた父と結婚し名古屋に嫁ぎました。 姉は鹿児島生まれなのですが、僕が生まれる頃には、今の自宅があるところに居をかまえたようです。 僕はずっとこの家で育ちました。名古屋市内の住宅地。近くに学校や公園がある地方都市の文教区。 都会でも田舎でもなく適度に住みやすい地域です。 名古屋というのは地元産業が活発で、皆大学をでたら、地元に戻り就職する人が多い。 地元意識が高いのです。皆、同じ価値観でいきているから、安定しているぶん、刺激はとぼしい。 生きることに何の疑問ももたず、普通に会社に勤めて、しっかり家族をやしない、人並みの家と車をもつ人生。 野心はなく、隣と同じように、並みに生きることを、目標にしているような。まじめで実直。 今、生産台数世界一になった、トヨタの車は名古屋の近隣の豊田市で生まれました。 そのメインブランド、カローラが名古屋を象徴しているような気がします。 コストを抑えたとても実用的な車。強烈な個性や車の楽しさなどは追求せず、ただただ労働者の足としての車。 平凡な優等生。中庸なグレー。村上春樹は名古屋のことを”アメリカで言うとクリーブランドのような都市だ。面 白みのない産業都市”と言い当てていた。  そんな名古屋で26までどっぷり育った僕ですが、同級生より少し開けた目をもてたのは、母親の影響が強いと思います。 今になってみると親父はよく旅の費用を捻出したなと思うのですが、毎年夏休みになると家族で母親の実家に帰省していました。 当時はサンフラワー号というフェリーが名古屋港からでていて、船内一泊二日で鹿児島についたと思います。 子供ごころに、その船に乗るのは大変な楽しみでした。大きな白い船体に赤い太陽が描かれているフェリー。 中にはゲームセンターや大浴場もあり、ひとつの街のようでした。 大きな海に沈む夕日。静かでどこまでも続く海原。デッキをさんさんと照らす夏の太陽。 鹿児島で多くの従兄弟たち(田舎は皆子だくさん)と1年に一回遊ぶことも、もちろん楽しい思い出ですが、そのフェリーでの往復は、とても特別 な時間でした。 非日常的であり、大きな移動する空間というのはやはり不思議なものですね。 いまでも船での移動は一番、旅情をかき立てられます。(ごあさちゃん、スタッテンフェリー乗ったかな? 僕は気分転換したい時によく乗りにいきました。twin towerがよく見えたな。風が気持ちよかった。)  たぶん僕のなかでの”ここではないどこか”を求める根源は、この鹿児島往復からうまれたように思います。 冒険をもとめず、安定を求める名古屋人の血とすこしだけ熱い九州の血。 NYへ行っても東京に行っても地元を捨てきれない自分と、名古屋に閉じこもって生きたくはない自分。 その葛藤は今でも続いています。どうするのだろうね。 ごあさちゃんの中にある韓国と日本というほどではないけど、二つの生き方の中で揺れるね。 人間だれしも多かれ少なかれ二面性はあるのだろうけど。 できるだけ柔らかく開けていたいとは思う今日この頃です。 それでは。 また東京で。